スタダイスの裏手は小高い丘になっていて、そこを上っていきました。
途中
マラッカって名前の由来にもなった木がありました

マラッカってのは英語読みで、
マレー語ではムラカって発音します

昔はいろいろなところで、マラッカ ( MALACCA ) って表記もあったんですが、
現在はほぼすべて現地の言葉のムラカ ( MELACA ) に統一されています。
その
ムラカの語源にもなったのがこの木 
マラッカ王国が設立されたのは、14 世紀終盤と書きましたが、当時、スマトラ島の南部に位置するパレンバンで生活していた若き皇太子 「 パラメスワラ 」 は、インドネシアほぼ全域を支配していたマジャパヒト王国に攻め込まれて、数人の家臣を引き連れトマセック ( 現在のシンガポール ) 経由でマレー半島の西海岸にある小さな港町にたどりつきました。
水と陽に恵まれた港町を皇太子は 「 ココは天然の良港だ 」 とつぶやいて、大きな樹木の近くに陣を張ってしばらく滞在することにきました。
ある日のことです。
皇太子と家臣たちは、猟犬を使って狩猟を楽しんでいました。
そのときジャングルの木陰から小さな子鹿現れたところ、すかさず皇太子は猟犬たちに 「 あの子鹿を追いつめろ!」 と合図をしました。
訓練された猟犬たちはチームワークを崩さず、川の方へと子鹿を追い込みジリジリと距離を詰めていきました。
子鹿ちゃんは絶体絶命。
窮鼠猫を噛むじゃないけど、突然、小鹿は猟犬のボスにとびかかり、眉間に強力なキックを見舞いました。
「 キャン 」 という悲鳴と共にボスは小川へ落とし込まれました。
狩猟犬たちは、ボスを頂点にして絶対服従のタテ社会を築いています。
ボス犬が攻撃され、一撃で川に落とされたのを見た残りの猟犬たちは戦意喪失

子鹿は、そのスキをついてジャングルに消えていきました。
この様子を見ていた皇太子は驚いて...
非力な小さな体で、訓練された猟犬を蹴散らし森に消えていった子鹿を
「 やぁ、敵ながら、あっぱれ!」 と褒め称えたのです。
そんなこんなで、皇太子はこの天然の良港に加え、超クールな子鹿に惚れ込み 「 素晴らしい場所だ! 余はココに我が国を興す!」 と家臣たちに宣言しました。
一部始終見ていた家臣たちも、この奇跡的な子鹿の戦いを高く評価し皇太子に同意しました。
さっそく皇太子は、この港町に暮らす先住民族たちを呼び集め
「 ここはなんて町だ?」 と聞きました。
原住民
「 ??? 」スマトラ島とマレー半島は海峡をはさんで隣どうしの関係ということもあり、言葉は方言ほどの違いなので、コミュニケーションに問題はなかったけれど、
現地の人たちは町に名前を付ける習慣が無かったのです。
町には当然名前があるはずだと思いこんでいた皇太子は、何度も 「 この町の名は?」 と聞きました。
あまりにもくどく繰り返される質問に、しびれを切らした原住民は
『 皇太子さまは、目の前にあるこの木の名を聞いておられるんじゃなかろうか?』と
勘違いをしてしまい、
「 皇太子さま、この木はムラカと申します 」 と答えてしまいました。
皇太子は
「 そっか。ムラカっていうんだな。これは素晴らしい名前じゃ 」 と勘違いをさらに加速させ
『 ムラカ 』を国名にして開祖を宣言しました。
時は1396年 
そして、皇太子はマラッカ王国の初代国王 パラメスワラ王として即位し、のちに東西交易で世界に馳せる国へとなっていったわけです。
ムラカって木の名前だったんですね 
こんな木...
そんな木を見た後、丘の上へ。
そこには
フランシスコ・ザビエルの石像が建っていました。
ザビエル...そうです。
日本の歴史にも出てきたこの人は、日本にキリスト教を布教したといわれている、スペインはバスクの人ですが、日本人がよく知ってる姿は
黒い服を着て手を胸の前でクロスさせ、頭のてっぺんがちょっと地肌が見えている、そんな姿ですね。
このザビエル、イエズス会創設時のメンバーで、ポルトガルのジョアン3世の命により、キリスト教を布教させるためにヨーロッパを旅立ち、このマラッカへやってきました。
1511 年のことです。
当時はイスラムの国だったのですが、ザビエル達イエズス会の宣教師が布教した...ま、植民地としたおかげでキリスト教国へとなって言ったわけですね。
その
ついで...に日本にもやってきました。
ザビエルが上陸したのはこの奥の方らしいです。
奥の方に海が見えますが、当時はもっともっと手前に海岸線が来ていたそうですよ。
日本はヨーロッパから見ると最も遠い場所にある国の一つで、その存在は全く知られていませんでした。
いまだに、ヨーロッパの人、日本がどこにあってどんな国なのかって知らない人、結構多いですよ

中国の一部だとか、そんな感じで見ている人、多いですからね

我々も、ポルトガルがスペインの一部って思ってる人も結構いるし、ザビエルでさえポルトガル人だってわけのわかんないこと言ってる人もいるみたいですからね

ま、ザビエルはこてこてのバスク人だったんですが、ポルトガル王の元、日本に来たわけですから、
紛らわしいっちゃ紛らわしいんですけど。
そんなザビエル、このマラッカで一人の日本人に出会ってから日本って国を知ったようです。
その人の名は、
やじろう 
この人のことはあまり詳しくはわかってないそうですが、鹿児島県出身で、若いときに日本で誤って人を殺めたため、このあたりの地を転々としていたんだそうです。
そのやじろうとザビエル、何となくウマがあったようで、その後、一緒に日本に訪れることになったんだそうです。
そんなザビエルが 46 歳の時、中国への布教のため上陸を待っていた時に亡くなってしまいます。
一旦このマラッカに遺体を持ってきて
9カ月安置されていました。
その場所がこの
セント・ポール礼拝堂壁だけとなったこの礼拝堂の奥に安置されていたそうです。
ちゃんと
イエズス会のマークがありますね。
カトリックの信者さんたちにとっては、今でも
聖地で巡礼者も結構来られているそうですよ。
そんな聖地を見学した後、丘を反対側に降りて、
サンチャゴ砦へとやってきました。
この砦は、1511 年にポルトガルによって建てられたものです。
当時はこの砦のこっち側は海だったそうで、海から守るための要塞として建てられたものです。
見晴らしのいいセントポール礼拝堂のある小高い丘の上に司令部が置かれ、そこに入ってくる敵を阻むためにこの周りには、4m もの城壁が張り巡らされていたそうです。
そして4つの門があったそうですが、そのうちの一つで現存する唯一のものがこのサンチャゴ砦と呼ばれているところです。
そんなわけで、マラッカの歴史を楽しんだ後、お昼ご飯へ

にほんブログ村