2014年11月22日

サラエボの旧市街をお散歩


第一次世界大戦の講義を聞いた後は、
のんびりと 「 現在のサラエボ 」 の街を観光しました。

まずは、旧市街に入って、イスラム色の強い街並みを歩き、

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お土産物屋さんなんかがかたまって賑わっているところなんかも見たりして。

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細い路地もぶらぶらと。

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こんな景色も、ヨーロッパらしくはないですよね。

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ま、ヨーロッパらしくないように撮ったといえばそういう風に撮ったのですが...わーい(嬉しい顔)たらーっ(汗)

昔のキャラバン隊が休んだところは、現代では憩いの場所のようになっています。

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というわけで、旧市街の方はヨーロッパ文化圏 ( キリスト教文化圏 ) とはちょっと違う、
西アジア文化圏 ( イスラム文化圏 ) ということで、その対比が僕には楽しかったですねるんるん

この後はちょっとした高台に上って、旧市街を上から見てみました。

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この後はお昼御飯です。


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2014年11月21日

サラエボ事件勃発の現場にて


サラエボの旧市街のど真ん中で一泊して、翌日の観光は旧市街を徒歩で。

今年のサラエボといえば、第一次世界大戦勃発の原因となった
サラエボ事件からちょうど 100 年目

というわけで、今回はサラエボ事件 〜 第一次世界大戦へのことを特に強調してもらっての町の見学となりました。

ちょうどホテルのお隣に遺跡があったので、そこから。

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遺跡というほど古くはないのですが、バルカン半島で交易が盛んだったころ、キャラバン隊が休んだりしていた場所です。
遺跡のようになってますね。

そしてその先のところには戦争ミュージアムが。

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1914 年 6 月 28 日、オーストリア = ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントの暗殺事件が起こった正にその 「 現場 」 です。

この先の橋のところでこのあたりの景色を眺めながらお話を聞いていました。

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とっても詳しく話していただいたんですが、なかなかメモを撮るわけにもいかず、断片的ですがちょっと覚えている限りで書いてみましょう。

まず暗殺事件が起こった背景ですが、僕も歴史学者でも何でもないので細かいことは分かりませんが...


19 世紀真ん中くらいから、今のトルコからルーマニア・ブルガリア・旧ユーゴスラビア地域を仕切っていたオスマントルコが弱体化していき、次々に支配されていた国々が独立しだしていきます。

1878 年 3 月にはセルビア王国ルーマニア公国ブルガリア公国モンテネグロなども誕生するわけですが、その後も、ロシアが介入して来たりなどなどと、オスマントルコの力が弱くなってきたために、ヨーロッパの均衡が崩れてくることになりました。

そんな時、何とかしようとビスマルク率いるドイツがヨーロッパの列強たちを募って会議を開き、ロシアの介入を阻止し、これらの小国の独立を認めることとなりました。

セルビアは独立したんですが、ボスニア = ヘルツェゴビナはオスマントルコ帝国の名目上の王権を残したままオーストリア = ハンガリーが統治することとなりました。

19 世紀後半になってくると、ドイツが帝国主義進出ということで、イギリスに対抗して世界に進出しようとしてきます。
ドイツの植民地連絡ルートが北海・バルト海から、オーストリア = ハンガリー帝国との同盟を通じてバルカン半島から中東方面に進出しようとしたりして。

イケイケ ( 古いなぁ...) のドイツがスタートしていくんですよね。

そんなドイツの動きに警戒感を感じたヨーロッパ諸国は、1907 年に英仏露三国協商が設立します。

特に 1870 年に普仏戦争でドイツに負けてアルザス・ロレーヌ地方を盗られたフランス
「 ドイツいてもーたれ 」 理念が定着して、

「 ドイツをいじめるんなら何でもやりまっせ 」 的な状態でした。

その後、ロシアが日露戦争で敗れて、不凍港を探しにバルカンに目をつけたり、ドイツもこの地を占領したいと思っていたり、それを阻止すべくイギリスやフランスが包囲網をひいたり。

ドイツも対抗して、特にバルカン半島においてはロシア、オーストリア = ハンガリー間に帝国主義的対立が発生することを懸念して、どっちかを味方にせなと。

ロシアはフランスと仲いいし、そしたらオーストリアやということで、オーストリアと組むことになります。

イタリアは、1881 年のチュニジア保護国化に衝撃が走り、フランス憎し。
フランスをやっつけるんやったら混ぜて...とドイツに接近

それぞれの国の思惑が重なって、結局、20 世紀の初めには、

英仏露三国協商 vs 独墺伊三国同盟

という、ヨーロッパが二つの同盟、協商により対立していくことになります。

1903 年、突如セルビアに暴動がおこり、セルビアがロシア寄りになっていきました。

当然オーストリアとセルビアの仲が悪くなり、いろいろとごたごたが起こって、そんなんやったらと、1908 年、ついにオーストリア = ハンガリー帝国は、ボスニア = ヘルツェゴビナを併合してしまいました。

当時、ボスニア = ヘルツェゴビナの住民の半分位はセルビア人で、この地方に住んでいるセルビア人達は、新しくできたセルビア王国に統合されず、なんで全然違うオーストリア = ハンガリー帝国に支配されないといけないんや...

首都サラエボでは、オーストリア憎しの気運が高まって行きました。

またセルビアも、バルカンを取り仕切ってるのはうちや!
と、二度のバルカン戦争に勝ったりなんかして、着々と力をつけてきました。


そんな緊張した時代背景の中・・・


運命の 1914 年 6 月 28 日がやってくるわけです。

オーストリア = ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナンド皇太子が妻のゾフィーとともにサラエボの市庁舎を訪れるということになりました。

民族主義者たちは、これはチャンスと。


皇太子の隊列は、町の真ん中を流れているミリャッカ川沿いの道を写真左手の方から進んできました。

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暗殺隊は何重にも組まれていました。

最初の暗殺者は、ポケットから銃を取り出そうとしたのですが、たくさんの群衆でごった返していたためうまくいきませんでした。

次の一人は警察官の目が非常に気になって、あきらめ、次の一人は、最後の最後で躊躇してしまって、失敗...

四人目も理由はわからないが実行することはできませんでした。

五人目は手りゅう弾を投げたのですが、皇太子の車ではなく別の車に当たりこれも失敗。

というわけで皇太子一行はそのまま市庁舎に入って行きました。

市庁舎に入った皇太子は怒りに満ちており、レセプションをどうしたのかは分からないですが、帰路に向かう時、今来た道ではなく違う道を通ることにしました。

市庁舎からの帰り、途中までは川沿いの同じ道を通り、現在ミュージアムになっているところで車は右に曲がって旧市街に入る予定だったのですが、皇太子はそのまままっすぐ行きたいということで変更になりました。

しかし道の変更は運転手には伝わっておらず、車は当初の予定通り曲がり角で右に曲がり、あわてて担当者がストップをかけました。

車は引き返して交差点のところに戻ってきたときに、その角の喫茶店にいた第六番目の暗殺者が飛び出して皇太子と夫人をポケットの銃で撃ちました。

正にこの場所です。

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現在その角の建物は戦争博物館になっており、その壁には当時の写真や新聞が貼られています。

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この場所だという石碑も刻まれていました。

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暗殺したのは、当時弱冠 19 歳の、ガブリロ・プリンチプという若者。

殺害後はすぐに当局に取り押さえられ、懲役 20 年という刑に処されたが、すでに肺結核をわずらっており、1918 年にプラハ郊外のオーストリア領の要塞で亡くなりました。

奇しくも第一次世界大戦が終わった年です。

今となってはこの若者が、本当に民族主義者なのか、それとも余命いくらかだというところに目をつけた人が洗脳したのかは分かりませんが...


という話を、30 分くらいこの場所で引きこまれるように聞いていました。

高校の世界史の授業のときでは、サラエボ事件が第一次世界大戦勃発の引き金になった...的なことを漠然と機械的に覚えていただけですが、ヨーロッパの列強のいろいろな思惑や当時の社会情勢、そういった背景を知りつつ資料を片手に話を聞くと、とてもよく頭に入ってきますね。

だって、その現実が 100 年前に自分の立っているその場所で起こったわけですからね。

我々が行った日は、天気のいい静かな日曜日の朝。

気持ちいいそよ風が吹いていました...


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2014年11月19日

国境を越えてモスタルへ


クロアチアから国境を越えて、or:#0000FF;">ボスニア = ヘルツェゴビナの古都、
世界遺産の街モスタルへ。

いつもは国境、ほんの数分で通過できるんですが、今回はなぜか厳しい...というか、丁寧なチェックで
2 時間ほど待たされてしまいましたがく〜(落胆した顔)

なので、モスタルに着いたのが、予定より大幅に遅れて、14:00 過ぎ。

それからサクッとお昼ご飯を食べて、モスタルの街を見に行きました。

つい最近...( 1993 年 ) に起きた内戦の跡がまだ生々しく残っていましたよ。

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このコンクリートの建物の傷は、銃弾の跡ですよ。

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こうやって残されているんですね。

その近くにはお土産物屋さんが立ち並んで賑わっていました。

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そしてその先から、有名な橋を撮ってみました。

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この橋は、街の中を流れているネルトヴァ川にかかっており、ちょうどカトリック系住民と、イスラム系住民の境目のような感じになっています。

スターリ・モストというこの石の橋をお互い仲良く行き来して、宗教の壁を超え、買い物やおしゃべりなどをし、和気あいあいと暮らしていたそうです。

ところが、ボスニア=ヘルツェゴビナ紛争の真っただ中である 1993 年 11 月 9 日 3:00 a.m. に、クロアチア系カトリック軍によって、この橋は爆破されてしまいました。

それまで仲良く行き来していた、挨拶を交わしていた友人たちと一瞬にして敵同士になってしまったということです。

戦争が終わり、現在、2004 年 6 月 23 日にその橋の復興が完成しました。

2004 年といったら、ついこの前ですね。

そして 2005 年にこの橋が世界遺産に登録されました。

こちらは橋の上から撮ったモスクです。

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今では平和なこの光景。

夏場には 「 根性を試す試み 」 ということでこの橋の上から川に飛び込むってイベントもやっています。

でも...

橋のたもとにはひっそりと記念の石碑がありました。

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というわけで、またまたお土産物屋さん街を通って駐車場へと向かいました。

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途中、レストランでは民族衣装を着た方が呼び込みをしていましたよ。

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